MAJORA CANAMUS.

ヘンデル「メサイア」への想いを、台本と楽譜をもとに語ります

No.1 序曲(5)

 聖書、特に旧約聖書は対話的なテクストであるという。対話的に構築され、対話的に関わらなければ読み解けない、対話の思想を叡智として持った対話的なテクストであるという1)

 メサイアの序曲の55小節目からはそのような対話性を想起させるような箇所である。通奏低音のAllegro moderatoの主題の上に、人間の堕落、反逆をあらわすような8分音符のざわざわとした声と、神が人間を諭すような2部音符が重なる。

 これからわれわれが奏でる、そして聴く物語は、神と人との対話のなかから創造されたものなのだということを音楽的にあらわしているような気がしてならない。

 

図 序曲 (55小節以降)

 そして次に71小節からは、Allegro moderatoの主題の一部が、Violino2 & Oboe2 → Violino 1 & Oboe 1 → Violino2 & Oboe2 → Basso continuo → Violino 1 & Oboe 1 → Basso continuo → Violino 1 & Oboe 1 → Basso continuo と切迫感を持って続き、結論のようにViolino 1 & Oboe 1 → Basso continuoと示される。人間の果てしない罪をあらわしているかのようである。

 序曲最後の4小節は、このような神と人との間に繰り返される対話の歴史から待望されたメシアが、ひとつの断定を示し、結論を出すのだという意思を感じる。

 

1)並木浩一, 奥泉光旧約聖書がわかる本  <対話でひもとくその世界>」,河出新書, 2022年

No.1 序曲 (4)

 Violino 1 & Oboe 1 → Violino 2 & Oboe 2 → Basso continuo に引き継がれた主題に続いて、対話を想起させるような音型が表れる。最初は、Violino 2 & Oboe 2(主題17小節のパッセージ)とBasso continuo(2分音符の音型)の組み合わせ(下図26-28小節)、次に、Violino 1 & Oboe 1(主題17小節のパッセージ)とViola(2分音符の音型)の組み合わせ(28-30小節目)、さらに、Violino 2 & Oboe 2(2分音符の音型)とBasso continuo(主題17小節のパッセージ)と対話が示される。8分音符と2分音符の対話は、苦悩・不安とその解決を示しているように思える。また、人間の騒がしい心(8部音符)と神の預言(2分音符)を表しているようにも思える。人間の何回にも及ぶ神への反逆を、神が諫めているようでもある。

図 序曲 26-28小節

 その後、まるで懲りない人間の心の昂ぶりを表すかのように、主題のパッセージがViolino 1 & Oboe 1とBasso continuoとの掛け合いで2回繰り返され(32-35小節)、さらに心の昂ぶりが昇華するような、主題の4小節目を5小節にわたって展開した8部音符と、それを支え嘆くような半音階のBasso continuoが続く(下図40-44小節)。なんとも興奮した、そしてやるせなさ、人間の罪深さを感じるところである。

図 序曲 40-44小節



No.1 序曲 (3)

 序曲は付点が特徴的な導入部、中間部のフーガ、そして終止部からなる。導入部は、前述のように上昇傾向の音形であるが、心からの喜びというより、心の嘆き、叫びを底から絞り出す、あるいは厳しく叱責しているかのようである。

 これに対して中間部のフーガの出だしの主題は下降気味の音形で、何かを語り、諭すようなイメージである(下図)。音形は前方を向いているようでもあり、次曲以降を見据えているようでもある。

 この主題は、Violino 1 & Oboe 1 → Violino 2 & Oboe 2 → Basso continuo に引き継がれていく。4声部であるのに主題は3回だけ繰り返される。violaには主題が割り当てられていない。宗教曲での「3」が持つ特別の意味合いがあるのかも知れないが、ヘンデルが知るのみである。

序曲フーガ部 主題

 さて、このフーガ部、この後次々と各部が対話するような構成が終止部まで続く。この対話は、いったい何を表現しているのだろうか。

No.1 序曲 (2)

 序曲の導入部の最初は以下のような主題から始まる。

 しかし、原譜の付点リズムは、複付点と16分音符の組み合わせであることが広く認められており、しかもスコアによっては、下記のように休符を組み合わせた鋭い切りと音形をイメージしている場合もある*1

 このような楽譜から奏でられる音楽は、「鋭い苦しみ」をイメージさせる。まるで十字架(人の罪)を背負ったイエス・キリストの重い足取りのようである。特に2小節から3小節にかけての通奏低音の飛躍とトリルは、まるで心の震えを表現しているかのようである。

 Graveで指定されている導入部は、Graveの持つ「荘厳」なイメージというより、文字通り重々しい歩みなのである。

*1:Novello Publishing Limited, Full Score. なお、以降小節番号は原則、上記のスコアに従うものとする。

No1.序曲 (1)

 メサイアのロンドン初演(1743年)のワードブック表紙の、テモテへの第一の手紙(第3章16節)とコロサイ人への手紙(第2章3節)に目を通した聴衆は、もしかしたら神を賛美するような長調の序曲を想像したのかも知れない。

 しかし、序曲は短調で始まる。しかもホ短調、希望を押し殺すような調性である。序曲は付点が特徴的な導入部、中間部のフーガ、そして終止部からなる。

 何故、このような序曲をヘンデルはイメージしたのだろうか。

 預言者たちによって告げられていた裁きであるバビロン捕囚をイメージしたのかも知れない。神殿を破壊された絶望、バビロニアネブカドネザル2世により、ユダ王国ユダヤ人たちがバビロニア地方へ連行され捕虜としての生活を強いられた苦しみを表現したのかも知れない。

 序曲は、バビロン捕囚を表現しているのだろうか。個人的には何か違う想いを序曲から感じる。

メサイア第一部

 メサイアは三部構成で、ワードブックには各部がさらにいくつかの「場」で構成されていることが示されている。第一部は救世主の預言、救世主の降誕と宣教を主題としている。但し、下表のようにその台本の選択は旧約聖書(特にイザヤ書)からの聖句が多く、新約聖書からの聖句は、降誕後の天使の軍勢のレチタティーヴォや合唱である。

表.メサイア第一部の聖句

 

 救世主の降誕や宣教は預言として間接的に記述された旧約聖書を台本として選択している点は注目される。そこには、新約聖書に述べられている直接的な降誕や癒し、奇跡の表現はない。

 このような間接的表現のほうが、「語りや劇的表現などよりも豊かで力強いものとなる。つまりこのような仄めかしの表現は、関連するあらゆる聖句を思い浮かべさせ、礼拝における様々な儀礼を連想させる1)」との意図がある。そして、「神は確かに選民を召し出し、本当にその民を奇跡によって助けたこと、旧約聖書の預言は確かに神の霊感を受けて為されたものであり、それらは確実に成就した1)」ことを表現したかったジェネンズの宗教的信念が反映されたものであろう。

 さて、ワードブックを演奏開始前に事前に目を通した聴衆は、ワードブックからは推測できない「序曲」を最初に聴くことになる。

1)ルース・スミス著、赤井勝哉訳、「チャールズ・ジェネンズ <<メサイヤ>>台本作家の知られざる功績」(2005年、聖公会出版)